高齢者の健康医学

霞が関ビル診療所
外科  庄司 佑 
(前日本医科大学長,外科教授)
       
 
 健康医学という言葉は、健康を維持するための医学と理解され、健康人を対象として栄養、生活
の面の指導や注意と運動に関する適切な助言など予防医学的の役割が考えられる。
 しかし医学とは病を治し健康を回復させる学問であり、疾病を早期に発見し変化が軽い中に治療
することによって少ない侵襲で完治させ、疾病が肉体、精神に与える影響を最小にしてより短期間
で健康生活に復帰させることも健康医学の範囲に入れてよいかと思われる。
 検診に用いる機器やそれを利用する技術と智識が進歩し、また血液その他の生体材料の諸検
査法の鋭敏度や特異性が向上しつつあるが、なお進行の早い疾患では検診の網の目をくぐって潜
行し、発見時にはすでに完治は期待出来ず、各種の治療によっても、進行悪化を緩徐にしようと試
みるのが精一杯という場合も決して少なくない。
 一方加齢と健康との関聨を考えてみると、平均寿命が大巾に延長してきた日本人ではあるが、
80歳をすぎて元気に社会的活動を続けている方は数少ないし、100歳まで常識的な判断能力を
維持しながら生きるのは例外的な存在と申してよかろう。
 高齢者を健康医学の対象とする時、一年一年の時間の経過が体力気力に与える影響が無視出
来ず、また局所的な変化の治療に務めるだけでなく、苦痛を除き栄養を補うなど対症療法にも十分
留意しなければ、患者の生活の質的向上は望めず、高齢者の患者の場合には特に医療がどれほ
ど患者さんの幸福に寄与しているのか常に検討反省していなければならない。
 私は外科の出身であり、癌を発見した場合は、若年者から働らき盛りの年齢層まででは根治手
術を治療上の第一選択とし、手術の侵襲、またリスクについても或程度は止むを得ないものとして
きた。
 高齢者を対象とするときは一歩控えて、悪性腫瘍があっても、手術は治療上の一選択肢であり、
総合的な治療の一手段であるとの認識を忘れないようにしている。
 たとえば80歳以上の高齢者で胃癌が発見され、腫瘍を含めての胃切除術を受けた際、通常の
手術侵襲では、根治手術に成功し術後の急性期を無事のり越えたとしても、術前の普通の生活を
送っていた時の体力を回復するのは容易でなくまた戻ったとしても長時間を要するのが常である。
 健康人と同じようなレベルの家庭生活を楽しむようになるのはなかなか難かしい。
 疾患の自然経過よりも手術治療を加えた方が、長期間またもっと活動的な生活が可能となるとい
う目算が立った場合に始めて手術治療が一手段として検討の対象になる。
 周知のごとく、種々の臓器に出来る悪性腫瘍の自然経過は発生臓器によりまた組織型によって
差異があり、極端な例をあげれば、或る型の肺癌には手術は全く無力であり、甲状腺癌の中にも
手術が全然予後を改善しないため、術前に細胞診で組織型を確定すれば、薬物療法、放射線療
法を第一に考えねばならないタイプがある。
 この様に手術が無用無益の場合もあるが、これはやはり少数で、多くは根治が出来ないと思わ
れる例でも何らかの症状改善、延命効果を期待して手術の是非を考えるのである。
 その際医師が常に配慮しなければならないのは手術治療の負の面である。
 術後の苦痛、侵襲の危険度、体力の損耗、術後の栄養の低下から高齢者では見当識の低下が
大きな問題となる。
 悪性疾患の完治、或いは症状の改善が、生きがいのある人生の延長につながるのかどうか、本
人や家族の考え方もよく聞き、医師の経験と良心によって判断すべきであろう。
 外科医として意見を求められる領域の一つに虚血性心疾患がある。
 平均寿命の延長と食生活の変化に伴い、虚血性心疾患は急激に増加して来た。
 本症は動脈硬化、高血圧、糖尿病、腎不全など内科的疾患に基盤を持ちつつ、最終的には冠状
動脈の血流不足という、外科的にも対応補正する可能性をもつ症状を示す。
 近年の手術治療法の進歩は真に目覚ましく心筋梗塞、狭心症のために生命を失い、或いは安静
を必要とするために社会的活動を控えざるを得なかった相当多数の患者の命を救いまた健康で活
動的な生活に復帰させることに成功している。
 冠血行障害の改善には手術でバイパスを作る以外に最近ではインターベンションと総称されるX
線透視下にカテーテルを用いて行うバルン拡張術、ステント挿入術、更には急性期に施行される
血栓融解術などの方法があり、急速に進歩発展しつつある。
 まだ進歩改良の余地は残されているものの現実には多くの患者さんにおいて、開胸手術という
大きな負担をかけずに症状の改善が得られているが、保存的療法があり、症状再発とそれに対す
る再施行をくり返すこともある。
 個々の患者さんに対する時、薬物治療か手術治療か、またはさらに発展しつつあるインターベン
ションにたよるのか、またこれらの組合せを選ぶのか、医師としては時期を失せず決定する必要が
あり、そのためにはそれぞれの手技の有効性と危険性、利点と欠点を比較検討しながら、個々に
異なる希望や期待に応じて選択しなければならない。
 特に近未来的には好成績が期待出来ても、長期予後の未だ明らかでない治療法の採用には迷
うところが多く、最近の学術情報に平常から留意している必要がある。
 また循環器内科、同外科、放射線科などの外科の医師による集学的検討が望ましい。
 血管外科の領域では最近下肢の血行障害に伴う運動能力の低下を訴える患者さんが増加して
来た。
 知的能力は十分な方が、歩行障害によって活動範囲を狭められ、能力を生かせないことは本人
にとって苦痛があり、社会にとっては大きな損失である。
 下肢の血行再建手術は一般に侵襲が軽く、変化が限局的の場合には血行改善の効果が著しい
ので、保存的治療が主になる整形外科的疾患と敏速にまた確実に鑑別して治療を進めれば、適
応のある方では比較的小さな手術によって社会的活動の範囲を拡げてあげられるやりがいのある
分野である。
 しかし個体の基礎疾患としては動脈硬化がほぼ全例にあり、さらに相当な数で糖尿病が関与し
ているので、術中術後は内科医とのきめ細かい連絡が好結果の持続に不可欠である。
 冠状動脈のバイパスにおいても、血行再建後に血中総コレステロールを正常値以下に保った群
では狭窄の再発率が有意に低いことが示されており、これは四肢の血行再建術においても全く同
様である。
 以上外科医が関与することが多い主要な疾患について、高齢者を主な対象として述べてきたが
、治療の効果と手術の侵襲のバランスを常に視野に入れておくと共に、加齢と共に各臓器に機能
低下、組織学変化がいろいろな程度に進行し、治療の対象となる疾患の外に全身的な或いは臨
床所見を示さない併発症のあり得る点を常に考慮しなければならない。
 各専門分野の医師の緊密な協力が必要で、これが患者さんの期待を満たす上に不可欠なことを
強調したい。